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「センス」の話。この世界の全てに匹敵するほど大事なもの。

センスの話。センスの科学。

「センス」に対する "誤解" が "理解" を遠ざける。

皆さんこんにちは。プロダクトデザイナーの上野です。

突然ですが、「〇〇さんは ”センスが良い” ね!」のような表現がありますね。

皆さんもそのようなことを誰かに言ったり言われたりすることが多いのではないでしょうか。
自慢になってしまいますが、私も小さい頃からたくさん言われて育ってきました(笑)

今日はこの「センス」のことについて、少しだけお話ししたいと思います。

詳しい内容は、私が開催準備を進めているデザインに関する様々なセミナー・ワークショップの中でご説明していきますので、ここでは軽く触れておきたいと思います。

簡単に言うと、「センスの正体をチラ見せ!

 

「センスが良い」の誤用 に ご用心!

さて、冒頭の「〇〇さんは ”センスが良い” ね!」という言葉、よく耳にしますよね。
しかし、その殆ど(私の感覚では100%と言って良いほど)は誤った使い方をされています。

その多くは、こんな時に使われていませんか?
デザインやアートの世界で言えば
●上手に絵を描いている
●色使いが抜群に上手い
●一目で美しい!と感じる造形物
このようなシーンやモノを目の当たりにした時にその作者に対して。

他にもスポーツや料理など、ありとあらゆる分野で、秀でた能力を称える表現として「センスが良い」という言葉が使われます。

実は、これこそが「センス」の誤った使い方なのです。

一体、何が誤っているのか?

それは ”使いどころ” です。

先の事例のように、能力を持った人が居て、その人が何かを表現したり成し遂げたり、またその途中の様を見て成果の評価として「この人はセンスが良い」という言葉が使われています。
この成果というのは “アウトプット” のことです。

この ”アウトプット” に対して「センス」という言葉を使うことこそが、間違いなのです。

正しくは ”インプット” に対して「センス」という言葉を使うべきなのです。

 

「センス」の正体を知ることが重要

「センス」は英語で “sense”。
日本語で センス = 感覚・感受性・感性(名詞)、感じる・感じ取る(動詞) という意味です。
そこから派生して、センサー = 感覚器・感知器 というものがあります。

言葉の意味の通り、情報を取り込むために生き物に備わっている能力を「センス」、その情報を外から受け取る器官を「センサー」と言います。
植物で言えば、光を感じ取ってそちらの方に葉を向けて効率的に光合成したりしますね。動物で言えば眼で光を感知したり、耳で音を感知したり、鼻で臭いや舌で味を感知したり。
このセンサー(感覚器)とセンス(感受性)の組み合わせにより、様々な情報を取り入れています。

これは、生物に備わっていると同時に、同じ仕組みが機械装置などにも活用されいます。

例えば、工場内で何かの自動組立てや加工を行うFA機器のような機械装置も、各工程毎にたくさんのセンサーが組み込まれています。
赤外線センサーや重量検知センサーや水位センサーなど、様々なセンサーがワークの状態を検知して機械が作動するタイミングや停止のタイミングや次の工程に送り出すタイミングなどを制御しています。
どんなに優れた機能の高価な機械であっても、センサーが一つ働かなくなっただけで、正常に作動しなくなってしまいます。
ちゃんとインプットされないと、アウトプットもできなくなってしまうということです。

話を元に戻すと、つまりは、このインプットの部分に対して”センス”という言葉を使うべきであって、アウトプットに対して使うものではないのです。

 

誤用による弊害

実は、「センスが良い」という言葉の使い手が「センス」のことを理解していないため、基本的に誤用と言えますが、正しく理解していて特定の意味を持って使っているのであれば、同じことを言ったとしても必ずしも間違いではありません。

少しややこしいですね(笑)

他人のインプットしている様や能力(センス)は第三者からは見えないので、アウトプットから逆算をして「これほどの優れた表現(アウトプット)ができるということは、この人は〇〇を感じ取る(インプット)能力が優れているのだな。その感じ取る能力は素晴らしいセンスだ。」というつもりでの表現であれば、間違いとは言えません。

でも、多くはそのような逆算を通じてインプット側のことを褒めているのではなく、単純にアウトプットを見てダイレクトにその人のことを「センスが良い」と思い、言い表しています。

そのため、「センス」という言葉が独り歩きして、乱用されてしまい、「センス」は曖昧で漠然としていて、あるのかないのか分からない、人それぞれで良し悪しも答えもないといった、これまた誤った認識が広まっているのです。

これは大きな弊害です。

人は自分が理解できないものを恐れ、身を守るため遠ざけようとする傾向があります。
例えば霊能力者、UFOが呼べるという能力者、普通の人には見えないものが見える、聞こえないものが聞こえる、感じられないものが感じられる、解らないものが解る、このような能力を持つ人が現れると、胡散臭く感じ、そこに働く秩序や道理さえも存在しないものとして目を伏せてしまいます。

悪気がなく純粋に褒めているとしても、アウトプットに対して「センスが良い」と言ってしまう習慣はそれを助長し、理解を超える能力や能力者との見えない距離感を作ってしまうのです。

例えば、デザインのことがよく分からない方は、「デザインに正解はない。人それぞれだよね。」と言って、確かにそこに存在するはずの秩序や正しさなどの真理に目を伏せ、無いものにしてしまいます。
例えば、デザインをデザイナーに依頼する決裁者が「デザインのことはよく解らないので、上手いことやってください」と、自身がデザインと向き合うことから距離を取り、デザイナーが様々なことを感じ取って構築していくベストなアドバイスに対しても全く耳を傾けようとしなかったり。

逆にデザイナーを志す者にとっても、アウトプット(表現)することばかりに注目してしまい、インプットの重要性に目を向ける機会が失われたり。

「センスが良い」という まやかしのような言葉で、センスを曖昧なものと思わないでください。
センスはもっとしっかりとはっきりと存在するものです。

 

「センス」は身の周りに溢れている

五感と言われる視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚では感じ取れないものを感じ取れる感覚を第六感と言います。海外の映画でも「シックスセンス」という霊感をテーマにしたものがありますね。
実は、第六感と言わず、何十も何百もあります。

確かにそこにあるのに、センスのない人には感じられず、センスのある人は感じられる。
しかも、同程度のセンスを持つ人同士は同じものを感じ取ることができます。

例えば、ここにテレビの電波、ラジオの電波、携帯電話の電波など、さまざまな電波が行きかっています。
センスにあたるアンテナや受信機などがない状態ではそれを感じ取ることはできません。
しかし、それらを持っていれば、TVが観られ、ラジオが聴け、携帯電話で話ができます。

センスがあるということは、それだけ明確にモノゴトを感じ取れているということです。
センスがないということは、そこに感じ取る対象が存在していることすら分からず、それを信用できないということです。

 

デザイナーはセンスの塊

私もデザイナーです。
自身のことをこのように話すのは気恥ずかしいのですが、実感として、やはり自分は一般的な人より多くのものを感じ取っているのだと、日々の生活の中でも実感することが多々あります。
人の悲しみ、喜び、不安、楽しさ、寂しさ、不自由さ、快適さ、温かさ、冷たさなど、五感どころか、何十も何百も、情報を感じ取れる感覚を持っています。

私たちデザイナーが実際に依頼を受け、デザインをする際や事業戦略を考える際、考えることに多くの時間を費やします。
解を求めようと、意識して考えることもあれば、自動で答えが出てくることもあります。夢の中で抱えていた設計課題がクリアできたこともあります。

しかし、それは常日頃からデザイナーの脳内に大量にストックされた情報に様々な分析が行われているからこそできることです。
様々な事象を構成する要素やそこに働く力や相関等あらゆることが関連付けがされたデータベースにアクセスしながら類推を元にベストな解を導いてく作業が常に頭の中で行われています。

その蓄積されたデータの中には、一般の方が感じ取れていない、デザイナーだけが感じ取っている情報がたくさんあります。
たくさんのセンスを持って、身の周りにある何の変哲もないモノゴトや自然、あらゆるNEWSやメディアから入る情報、自身の体験や他人の体験談などから、一般の方が感じ取れていないものを感じ取って、モノゴトの構造を多角的に読み取っています。

モノゴトをできる限り正しく読み取って、さらに新しい情報を得る毎に、誤った認識を持っていたと判明した部分は躊躇なく修正し、どんどん正確なデータにアップデートしていく。
そんな作業が繰り返し頭の中で行われています。

アインシュタインやダ・ヴィンチもこのセンスの数と質がズバ抜けていて、且つ、学問的なジャンルの境界線には捉われないシステム思考であるからこそ、私たちの身の周りに働いている様々な原理や作用を感じ取り、その正体に迫ることができたのだと思います。

 

事実、「センス」は意図的に作れる!

様々な分野で活躍する人を目の当たりにして、「私にはセンスがない」と挑戦を諦める人がいます。
もちろん、物理的に超えることのできない条件があったり、年齢や性別といった壁が立ちはだかることもあり、必ずしも思い通りの自分になれるとは限りません。

しかし「センス」は作れます。

「センス」だけが問題なのであれば、まだまだ可能性があります。

デザイナーやその他様々な分野で活躍する優れたセンスの持ち主は、幸いにも元々センスを生み出しやすい傾向にあり、本人も知らず知らずの内にセンスを生み出し醸成していくため、成長と共に一般的な方が感じ取れない様々なことを感じ取れるようなっていきます。
私もまだ人生半ばですが、まだまだ様々なセンスが生まれていて、恐らくは生涯このようなことが続いていくのだと思います。

それと同様に、センスというものを正しく認識して、センスの生み出し方や醸成の仕方を学べば、センスを意図的に生み出すことができます。

実はマジックのミスリードも同じようなものです。他にも、催眠術や、TVやWebの通販や、スポーツの世界でも、その場限りのセンスを相手に対して一瞬にして作り出し、それを利用して巧みに誘導したりしています。
もちろん、その場限りではなく、ビジネスに活用できる様々なセンスを中長期的にしっかりと築き上げていくこともできます。

その方法については、弊社主催のいくつかのセミナー・ワークショップの中でも触れていきますが、少なくともセンスは持って生まれたものだけではなく、後で意図的に作れるということを知っておいていただきたいと思います。

逆に、せっかく持っていたセンスが錆びついて衰退していくこともあるので、私たちデザイナーも常にセンスをキープして磨き続けなければならないということは肝に銘じておかなければなりません。

 

「センス」は生きている証、この世界の全て

最後に、この記事のタイトルに”この世界の全てに匹敵するほど”と付けているのは、私たちが感じているものの全てがセンスを通して得られているからです。
ちょっと壮大ですが、引かないでくださいね(笑)

端的に言えば、
生きているということはセンスを授かっているということです。逆に全てのセンスを失った時は死を意味します。

皆がそれぞれに感じ取っているこの世界の全ては、それぞれのセンスがもたらしているのです。

残念ながら、センスが狂ってしまっている人には、歪んだ世界として映ってしまいます。

だからこそ、私たちはいろんな人と話して、いろんな価値観を受け入れて、自分のセンスが狂っていないのかを常に確かめながら補正をかけていかないといけません。
センスは正しく機能してこそ、その恩恵を受けることができるのですから。

私も ここ10~20年で徐々に失っていったセンスがあります。それをまた取り戻して、歪んでしまっていたセンスも正さなければと思います。

「センス」について軽く触れるつもりでしたが、
少々長くなったので 今日はこの辺で。

  1. 月森洋子

    初めまして。月森と申します。
    センスについての記事、難しいですが納得できるところや、
    そうだったのかと驚く内容が多く感銘を受けました!

    私は、セラピスト活動をしており、クライアントさんには対話して絵を描くことで
    気づきや自分の内側を受け入れることを目的としております。

    絵を描くことに興味があるがどうしても描けないと言うのです。

    最近は少し気づきを得て表現し始めた1人もいます。
    センスとセンサーが高すぎるゆえ、表現したときにガッカリする、もしくは本当に描けないのかなと思いました。

    こういった人が描ける喜びを得るには、 
    自分のセンサーやセンスを受け入れて素直に描くことでしょうか。

    もしお返事いただけますと嬉しいです。

    月森

    • 上野 和宏

      月森 様

      コメントをいただきまして、ありがとうございます。
      長らく気づかず申し訳ございませんでした。

      今回ご質問いただきました クライアント様が絵を描く ということにどの程度の表現力を求められているのかが分かりませんが、より上達することを望まれているのでしたら、細かな表現技術の習得よりも遥かに大切な事があります。

      デッサンの指導をするようなアートゼミでは特に徹底的に鍛えられる一番大切な事です。

      それは、下記のような極当たり前の手順を誠実に行うという事です。

      ①現物(表現すべき対象)をきちんと見て、見た通りに描く
      ②自分が描いたものを見て現物と合っているのかを評価する
      ③間違いがあれば躊躇なく正す

      非常にシンプルですが、ちゃんと絵の修行をした方でなければ、
      この②③が出来ないので、アートゼミのようなところでは徹底的に②③を鍛えられます。

      ①は現物をインプットする訳ですが、②は自分が描いたものをインプットして省みる作業です。
      その際に、現物とは異なる形で歪んで描かれたものなのに、様々な偏見により自分では正しく見えてしまいます。
      その偏見フィルターを取り除くために、鏡に映して(携帯で写真を撮って左右反転しても良い)見たり、時間を置いてから見たり、他の方から違和感を感じるところを指摘してもらう等の方法が取られます。

      そこで、線の長さや角度などが間違えていると思う部分があれば、躊躇なく真っ白に消してしまって、納得がいくまで何度でも描いては消すことを繰り返します。

      この②③はデッサンを上手く描くためにとても大切なことですが、そこから学べる事は仕事や人との接し方など人生のあらゆる場面で活かされると思います。

      以上、ご質問の内容に合っているか分かりませんが、何かの参考になると嬉しいです。

      <ちょっと気になったので、補足させていただきます>

      デッサンではなく、アート的要素の強い絵を描く場合には、また違った要素も入ってきますね。
      だからと言って上記の内容が無関係ということではありません。
      デッサンは眼から入った情報を正しく感じ取るという意味で大切だからです。

      アート的要素の強い絵は、その眼から入った情報だけ取ってみてもさらに包括的であると言えます。
      一つの視点からではなく、横からでも後ろからでも上からでもいろんな角度から見たもの、つまりは自分が眼を通して知り得た全てを一枚の絵に込める事になります。

      例えば、ピカソの絵に描かれる横顔の人に見えないはずの向こう側の目まで含めて二つ描かれているのは、例え横を向いていたとしても「その人には目が二つある」ということを知っているから二つ描くのだと理解して良いと思います。

      同じく、音を絵で表現する、温かさや冷たさを絵で表現する、匂いを絵で表現する、嬉しさや悲しさなどの気持ちを絵で表現するなど、様々なセンスからのインプットをそこに重ねて表現していくため、他人が見ると複雑で取り留めないものに感じられますが、そこには視覚以外のものが全て一つのキャンバスに表現されているのだということを見る側が意識しておかないといけませんね。

      絵を描く指導をされる際には、クライアント様にそのような五感で感じ取ったことや気持ちなど表現したいことを一度メモとして言葉や落書きのようなもので項目別にで書き出していただいて、それらがひとつひとつちゃんと表現されているかどうか意識しながら絵を描き進めていただくと良いかもしれません。

      まずは、いろんな絵画を見てそこに何が表現されているのかを感じ取る訓練をすると、表現方法の引き出しが増えてくるかと思います。

      こちらも 何かしらの参考になりますと幸いです。

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